石井僚一短歌賞授賞式のはなし
先日、石井僚一短歌賞授賞式がありました。わー!
出席するにあたって、ずっと「授賞式っていってもな! わたし授賞してないしな!」と心が狭いことをずっと思ってて、それでもずっと残席1だったので、もやもやに行きたさが勝って、結局参加することに。
よく忘れられるけれど、わたしの本拠地は京都です。日帰り東京ツアーでした。
参加枠五名という規模で、そんなに知らないひともいなかったのできがるーな気持ちで会場に入ったら、
みんな鼻眼鏡でびっくりしました。鬱に効くらしい。
冬にお会いしたじょーねつさんが、上半身全部赤だったので、もしかしたらきょうも赤なのかな、と思いきやそんなことはありませんでした。ざんねん。
わたしは紅茶にたくさんガムシロとミルクを入れる派なんですけど、それを突っ込まれたときに「あはは量が増えてお得じゃないですか~」と共感されるために言ったら全く共感を得られないでびっくりした。
題は「漢字一種類以外すべてひらがな」です。
わたしが出した歌はこれです。
なんとなくおんな抱きたいとおもうおかけになったばんごうはげんざいつかわ
中澤系っぽさがあるとの指摘がありました。たしかに!
女を抱きたいと思って、手近な女に電話するけど、かからない歌と解釈する人が多かったです。
男の浅い欲求って言われました。照れる!
一種類しか使えない漢字の使いどころや、ひらがなである必然性、みたいなのがむずかしかったです。
これは今後もチャレンジしてみたい。
前に稀風社の歌会に参加したときと、メンバーはそんなに変わらなかったと思うけれど、評とか雰囲気がぜんぜん違ってびっくりした!
飲み会のときに寺井さんに、「寺井さんの歌で未来日記というアニメを思い出しました。ぜんぜん面白くないアニメなんですけど」と言ったら組長が
「最初から八割まではあんなに面白かったのにな」とフォローを入れてくれてよかった。
犬の話らへんからけっこう怪しかったよな……。
改めて、ほしみゆえさんおめでとうございます🎉✨
たくさんの人にひかりを当てた連作だと思います。
ほしみさんの歌についてはまた書きます。
とりあえず授賞式の様子だけ。
アベンジャーズに入りたい
タイトルは特に関係ないです。願望です。
すこし前に伊舎堂さんが好きなわけではないのに思い出してしまう短歌について語る会を開いていて、私は参加はできなかったのですが、たしかにそういう歌あるよなぁと思う。
そんな中、最近よく脳内で思い浮かべる短歌がある。
このままじゃいつかぜったいぼくはしぬ 二十歳の朝の脈をとりつつ/久保美崎
これは三月に行われた短歌バトルで出されていた歌だ。
そのときの評では、脈を取るという行為や「しぬ」という言葉から、
寿命で死ぬ、病気で死ぬ、みたいな解釈だったように思う。(ほんとうにうろ覚えなので違ったらごめんなさい)
でも、短歌バトルから三か月経ってみると、この歌、身体的な歌じゃなくて、精神的な歌じゃないか? と思い始めてきた。
二十歳、というのは一つ転換の年で、「深夜高速」の歌詞ではないけど、十代はいつか終わる、と笑っていたのに、ほんとうに十代が終わってみると、どうしていいかわからない。
(高校を出て働いている人たちもたくさんいるけれど、)二十歳だとまだ大学生の人も多く、就職までも時間があって、でも、もうずっと遊んでいられるわけではない、と思い始める年でもある。
そういったときに、じわじわと追い詰められて、いくのが「ぼく」なのである。
「ぼく」という一人称はすこし特殊で(短歌バトルでの歌、ということで、作者の久保さんが女性である、という前提で読んだとき)、女性で「ぼく」という一人称にはやっぱりひっかかりがある。
女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた<らしさ>の全てが疎ましくなって、すべてを濾過するように<僕>になり、そうしたらひどく解放された気がした。
主人公は、女子高生で、文芸部に属している。主人公の一人称は「僕」だ。
これは主人公による、社会に対するささやかな反抗心の発露だった。
小説内には一人称に関する記述が多くあらわれる。
尚子のほうは部会に出てこなくなり、会えばからからと空虚に笑うようになった。尚子の魂はくぐもったベールに包まれ、三年になって同じクラスになってみると、いつしか彼女は<あたし>という一人称を身につけていた。
主人公は、「僕」という一人称につよく意識を持って、<あたし>という一人称に下った尚子を否定的に見ている。
この小説では17歳から18歳にかけての物語だが、「僕」という一人称を女性がつかうことには、やっぱりなにか、「わたし」や「あたし」とはなにか違うものがあるのだと思う。
また、椎名林檎の歌でも「僕」という一人称がよく使われる。
特に「透明人間」の歌詞は顕著じゃないだろうか。
僕は透明人間さ きっと透けてしまう 同じひとには判る
噂が走る通りは息を吸い込め 止めた儘で渡ってゆける
恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら
濁りそうになったんだ。
ここでいう<濁る>が、「僕はかぐや姫」における<あたし(という一人称)>であり、久保さんの歌に現れる<しぬ>なんじゃないだろうか。
人間は健康なら八十歳まで生きるとか、近代医療の発達とかどうでもよくて、避けられないまま、絶対的に、わたしたちは自然に<ぼく>を卒業してしまう。
「僕はかぐや姫」における主人公の<僕>は、男子校の生徒と触れ合うことによって、「透明人間」の<僕>は「恥ずかしくなったり」(これはほかの人と話したり、触れ合って、だと思う)することによって、
うしなわれたり、濁ったりする。
そういった避けられない死を歌う、大人になりかけている少女の叫び、のような歌なんじゃないかと思う。
おうどん。
追記
知ってる人も多いかも。
私は駿台のセンター対策教室の教材としてこの文章に出会ったのだけど、身に思うことが多すぎて、解きながら号泣した。
ぜひ読んでみてほしい。特に高校で文芸部だった女子。
へたしたら死ぬ。
「<二十億光年の孤独>を読んだ?」
「・・・・・・うん。泣いた、僕」
「キルケゴールが・・・もちろん読んだって半分もわからないんだけど・・・・
本を開いただけで苦しくなって・・・・・」
「<死に至る病><わたしにとっての心理>・・・僕らをひとことで殺す文句だ。」
一番こころにぐさっと刺さった文章と、冒頭の一節は、引用しないので、ほんとうに、読んで……という気持ちです。
歌会のときの評のことばについて思うこと
短歌にはまったきっかけは歌会のたのしさだった。
歌会にはあんまりテンプレートがなくて、争点らしい争点がなくて、表現に対して、いろんな言葉でアプローチできるから、たのしい。その歌に対する立場の取り方が、読む人によって全然ちがって、それを聞くのもおもしろい。
歌をみたときにわたしたちが感じることは、31音よりずっとずっと多い。使われている助詞ひとつとか、詠みこまれている単語ひとつを手掛かりに読み進めていく。
短歌は、私たちが使っている言語とちょっと違う言語法則が働いてる。
歌に詠みこまれている単語も、私たちが辞書で知っている意味以上のものを少しずつまとって、歌の中に存在している。
意味以上のものには、例えばイメージだったり気分だったりがある。
イメージや気分を散文や言葉で直接表わすのは難しい。説明的な言葉に変換された瞬間に、イメージはしぼみ、気分はそっと立ち消える。
もちろんはっきりと説明の言葉を尽くす方が、言葉の共有は簡単だし、理解も早い。
けれど、それって本当に歌の理解なのかよ。
説明や解や論理は必要だけど、でもそれだけで読めるんだったら、短歌の必要性が揺らぐと思う。
短歌が別の言語法則で動いているのだから、私たちが歌を読むときには、短歌を読むための言語法則を見つけ出さなきゃいけないと思う。
だから、わたしは、いろんな例え話をして、その歌から自分が感じたイメージや気分をできるだけそのままのかたちで歌会の場所にいるひとと共有したいと思うし、他の人たちの感じたイメージや気分を知りたいと思う。
阪大で配布されているフリーペーパー「漂流記」に、阪大短歌の山田誠久さんが載せていた文章がとても好きだったので引用します。
議論が白熱するほどにそれぞれの出身地や専攻の特色が出て、飛び交う方言に専門用語。一方では江戸文学について話しているときに、もう一方ではラジカル連鎖反応の話をしているなんてこともしばしば。(中略)
どうしてそんなことが起きるかというと、今これを書いている私の個人的な意見ですが、みんな「伝えたい」からだと思います。じゃあ普通に話せばいいのに、ってなりそうなんですが、それがなかなか上手くいかなくて。例えば「方言でしか伝えられないこと」があったとして、それはやっぱり方言で話すしかないんですよ。文章で伝えられるなら、僕たちは歌になんかしません。歌でしか伝えられないことがあると思っているから、こうして活動しています。そんな中では感覚でしか話せないことばかりです。みんな「伝える」ことに必死で、わかるとかわからないとか関係なくて、使えるもの全部使って伝えようとすれば、方言も専門用語も小学校での思い出も、好きな音楽の話も、一昨日バイトで見かけた変な人の話も、一限の授業で習ったばかりのことも、みんなみんな武器になります。
すごく救われる文章だった。
うーん。いろいろ思うところはあるけれど、今日の歌会も楽しかった。また行きたいな。
短歌研究 5月号
新人賞の時期だなーと思いつつ、この間石井僚一短歌賞でなににも引っかかれなかったことがびっくりするほど悔しくて、呆然としつづけてる。
けど、一応短歌研究を買ってみた。30首かぁ。審査員非公開って毎年なのかな。
わからないことばっかりだ。
はじめてまじまじと短歌研究を読んでみた。(いつもは目当ての人の歌しか読まない)
表紙の歌 "快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花 (長塚節)"の解説好き。病で気が弱っているときに、元許嫁の女性から花を貰って、花瓶がないから薬壜を探して活ける。その花々の中で矢車の花だけが「心強げに」咲いていたのはうつくいいなぁと思う。病気の心にぱっと光が差すよう。
千葉聡さんの「短歌のとなりの物語」も面白かった。
NHK短歌にも漫画と短歌のコラボレーションがあって、それも毎回読んでしまう。
巻頭のエッセイを書いている村上しいこさんは『うたうとは小さないのちひろいあげ』という小説で野間児童文芸賞を獲られたらしい。作中にはキャラクターたちの口を借りて、村上さんが詠んだ歌が60首ほど載っているということ。
ぜんぜんチェックしていなかったので、読みたい。
作品季評の対談。穂村弘さん(コーディネーターってなんだろ)と、水原紫苑さんと、吉岡太郎さんの三人が、「日照雨」(柏崎驍二)・「防災無線」(米川千嘉子)・『砂丘律』(千種創一)の各連作・歌集について話してる。
歌集とか連作を読むときの人の考え方や捉え方(作品内の自分の立ち位置とか)が見えておもしろい。「日照雨」の読みで、穂村弘さんが「吹雪美人図」のイメージについての読みを展開していて、なんだか安心した。
買って読んでない短歌研究も読まなきゃなぁと思いつつ、好きな連作ばかりいつも見直してしまう。
好きな歌は数えるほどしかないけど、好きな連作はちょっとずつだけ増える。
短歌を読むことがもうちょっと楽しくなったらいいな。
新歓の季節で、短歌にはじめて触れ始めるひととたくさん喋ったり、就職活動の面接官のひとに「短歌やってるんですね」って言われたりしたときに、いつも言葉に詰まる。
わたしが短歌について話すとき、わたしが短歌するときと全然違う気持ちになる。
短歌について語ったり、説明したりするときの短歌、全然楽しそうじゃなくて自分でびっくりする。
うーん、短歌、何が楽しいんだろ。ってなったとき、穂村弘になりたいって思う。