石井賞本を読む

▽前置き
先日書いたとおり、授賞式に参加したのですが。
その二次会で、その場にいた選考員の石井僚一さんと寺井龍哉さんが、参加者の応募作に対して評を話してくれる、ということがありました。

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応募作の束、と寺井さんのピース。
内容はもちろん非公開でしたが、厚さだけ写真を撮らせてもらいました。すごい重量。

参加者の方々は順々に評をもらってけっこう盛り上がっていたのですが、
わたしの番になったとき、石井さんもけっこう話ずらそうで、「この連作はねー……うーん」みたいな感じでした。

二三川さんの応募作に、「もしかしたら二三川練のかも?」みたいなメモがあってめちゃ羨ましかったのですが。
わたしの応募作に書いてあったのは「保留」。石井さんはぜんぶの応募作をを二周読んだそうですから、二周目に決める、みたいな「保留」、なのかなと思います。

へこみました。やっぱりな、ってことを、きちんと言ってもらえたのはとてもよかったです。
お陰で、あんまり読めてなかった「石井賞本」もようやくずるずる読めるようになってきました。
あきらめ、みたいな感じ。

それからやっと山本まともさんと齊藤見咲子さんのキャスを聞いて、わあーおもしろいなーとか思っていたら、
わたしもちょっとずつなにか言いたくなってきた。
ので、書きます。


▽「ひかりさす」のひらがな率

「ひらがなを多用し、誰にでもわかる表現で詠まれた、まるで絵本のような文体をもつ一連で、それが柔らかい印象を与える(石井/9p)」


「ひかりさす」はひらがなが多い。とてもおおい。
数えてみたのですが、
「ひかりさす」15首の文字数は449文字、そのうち漢字が30文字、ひらがなが419文字、カタカナはゼロ文字である。
一首あたりの平均は、29.9文字、漢字2文字、ひらがな27.9文字である。

次席のやまだわるいこさんの「21歳」で見ると、
全17首のなかで、文字数は455文字、漢字は133文字、ひらがなが277文字、カタカナ45文字。
一首あたりの平均は、文字数26.7文字、漢字が7.8文字、ひらがなは16.2文字、カタカナは2.6文字である。

わからなくなってきたのでまとめると。
「ひかりさす」(15首)一首あたり平均30文字、漢字率6.6パーセント、ひらがな率93パーセント。
「21歳」(17首)一首あたり平均26.7文字、漢字率29.2パーセント、カタカナ率9.8パーセント、ひらがな率60.8パーセント。

だと思います。たぶん。数えることと計算が多すぎて、混乱してるけど、
たぶんこれくらいの数値だと思います。

パッと見でもわかりますが、数値でみると、もうめちゃめちゃにひらがなだなーという印象。あと一首31音が定型の短歌において、一首の平均文字数が30文字(31文字の歌が5首ある)というのはけっこう珍しいのでは、と思った。

▽文体と人格

情田さんも石井さんも「ひかりさす」に対してかなり肯定的だけれど、二人の意見はもう徹底的にちがう、と私は思っていて、
石井さんは「歌から声がきこえる。(9p)」として、この連作において呼びかけてくる<誰か>の存在を見ているのに対して、
情田さんは「大人の短歌として勝負してほしい(57p)」と述べていて、これはどういうことなのかよくわからなかったけれど、ひらがなだから子供っぽいというだけではなくて、フェイクさ? みたいなものに対しての言及だと思う。
大人だから漢字を使う、とかではなくて、普段文字を書くときにわたしたちはふつうこんなにひらがなを使わない、からこの文体は意図された作為的なものである、ということを指しているのかなと思う。
(これはこの間お会いしたときに本人にきけばよかった! 全然違かったらごめんなさい)

石井さんは、<人格を持った誰か>が<誰か自身の言葉>で語りかけてくる連作だと取ったのに対して、
情田さんと、<作者>が<ひらがなが多い文体>で呼びかけていること、その文体のかんせいどへの感動? みたいな感じかな、というのを読んでいて思った。
寺井さんは「作者の顔、固有性が見えない(59p)」とあるように、<誰か>が見えるほど切実には感じられなかったのかなと思う。

▽文体と内容

「ぱっと見わかるとおりひらがなが多い文体で誰にでもわかるような内容で書かれています。(石井/57p)」

この発言がひっかかる。「ひらがなが多い文体」はわかるけれど、「誰にでもわかるような内容」なのかな。
この「わかる」がどういうニュアンスで発されたか、この文章じゃわかりにくいけれど、たぶん石井さんは<①(誰にでも)言葉の意味が理解しやすい>、<②書かれている状況、内容がわかりやすい>、<③内容の意図していることがわかりやすい>の三つのわかりやすいを混ぜた、「誰にでもわかる」なのかなと思う。

①は、57p上段で、意味がわかりやすい単語・名詞を述べていることから、②は同ページの上段最後らへんから。③は57p中段の「わりばしを~」の歌への解釈あたりとかから、読み取れる。

でも③までいけるひとって結構限られているんじゃないかな、と思った。

情田さんは「輪郭のない語彙(9p)」とか言葉の具体化されてなさについて、つまり文体のすごさについて語っているけれど、③の内容の意図とかではなく、「カメラのように安定した視線(91p)」とか、「原初的な祈り(58p)」みたいな文体がもたらす効果みたいなものに注目しているのだと思う。

山本さんと斎藤さんのキャスでは、斎藤さんが結構③の内容の意図に対してわからないですね、みたいなコメントを多くしていたのだと思う。
この③の理解段階までたどり着けるかが、この連作にめちゃめちゃハマるかハマらないかを大きく分けているのかなと思った。

▽聖書と「ひかりさす」

なにを書きたいかよくわからなかってきた。
だれが得するんだろこれ。

突然だけど聖書っていうベストセラーがあるんですね。
聖書は、キリスト教のひとが読むもの、という印象がありますが、
ふつうに物語として読む人も多いですね。
物語として読む人は、セリフのかっこよさとか、出てくるモチーフの良さとか、物語としての面白さとかを楽しむわけです。
でも、教典として読む人の楽しみ方はほんまヤバいんですね。
前に教会に遊びに行って、キリスト教の方々と聖書を読む会に参加したのですが、
一節に含まれていた「(女性がキリストの言葉に)傾聴していた」という言葉ひとつに20分くらい話していました。
なんかこう、<わたしたちはキリストという神を信じている>という前提を持って読むと、聖書のことばはひとつひとつがとても輝いて見えるわけです。動詞一つですら。

啓示、という言葉があって、「人間の力では知ることのできない宗教的真理を、神が神自身または天使など超自然的存在を介して人間へ伝達すること。天啓。(デジタル大辞泉)」という意味なんですけれど、これは神や天使側だけの呼びかけだけじゃなくて、
受け取る側に受け取る準備や受け取りたいという欲求があるからの、「啓示」だと思うんですよ。

わたしはこの「ひかりさす」は啓示にちかい効果をもっているな、と思います。

山本さんと斎藤さんのキャスで、「ひかりが差す、というのは暗い場所にひかりが差すからそういう言い方になる」みたいな発言もありました。

この<ひかり>が<さす>のは、連作を読んだ人に対しての<ひかり>なんじゃないのかな。
この<ひかり>を求めていることが、この啓示を受け取る条件、みたいなかんじ。

全員に届く連作じゃないからこそ、よけい輝く連作なんじゃないかなと思う。


▽連作の視点について思うこと

わたしはあまり寺井さんの評に賛同できなかった。59pの上段あたりのところとか。この連作において、生きたいという気持ち→不安→前を向くみたいな流れを持ってつくられている、というか、それに重きを置いている感じがあんまりしなかった。

情田さんの言うような「作者の揺らぎなさ、カメラのように安定した視線(91p)」によって「(こんなのは1首だけ出てきてもなんじゃそれってなるんだけど、)この一連の流れ、積み重ねてきた肯定の果てにこれ(注:2首目のこと)を言うと、本当にこの歌が正しいような気がしてくるというか、信じさせられていく」みたいなところに強さがあるように感じた。

HEROさんが制作した漫画やイラストを公開している「読解アヘン」というHPがあって、そこで公開されている漫画に「視界の端のアリス」という漫画がある。
主人公は漫画を描くのが好きで、とてもとてもネガティブなのだが、彼女にだけ見える彼女と同じ名前の女の子が、主人公がネガティブなことを考えるたびにポジティブなことを言う、みたいな感じ。

わたし(読み手)にだけ見える/聞こえるお助けキャラ、みたいな感じだなーと思った。
ミルモでポン!」みたいな。必要なときに初めて姿をあらわす、みたいな。

1首1首がどうという感じじゃなくて、ほんとうに連作としてひとつのことを伝えている連作だと思う。

▽好きな一首
「すこしずつおぼえあっていくことがうれしい きらきらひかる自転車」

きらきらひかる自転車、は買ったばかりだからきらきらひかるわけではないと思う。
この歌はなにかを「おぼえあっ」た直後の歌だと思う。
この「おぼえあっていく」は<覚えた>よりずっと希望にみちあふれてる。
<覚えた>はルールとわたしの認知というか、ルールがあって、それを知る。なにか知識があって、それを覚える、という感じ。
だけど、たぶん普段覚えられる側である、ルールとか知識とかは<覚える>ことはしないと思う。
「おぼえあっていく」の<~しあう>相手は、だれか人とか、感情を持った存在との分かち合いだと思う。だれかの存在とともにいることがわかるから、とてもやさしい感じ。
そういった経験を経たあと、感情を持った存在ではない、物質、モノとしての「自転車」をみたときにきらきらしてみえた、という歌ではないかと思う。
「うれしい」や「きらきらひかる」といったいわゆるベタな語彙なのだけど、「おぼえあっていく」というちょっと耳慣れない言葉が一首を際立たせているのだと思う。


▽さいごに

四千文字くらい書いたけど、書きたかったことはこれじゃない感がすごい。

あと、寺井さんの「選考に寄せて」が日本のハードボイルド警察小説みたいでとてもとてもかっこいい。読んでてびっくりした。





ほしみゆえさん受賞ほんとうにおめでとうございます。

石井僚一短歌賞授賞式のはなし

先日、石井僚一短歌賞授賞式がありました。わー!
出席するにあたって、ずっと「授賞式っていってもな! わたし授賞してないしな!」と心が狭いことをずっと思ってて、それでもずっと残席1だったので、もやもやに行きたさが勝って、結局参加することに。
よく忘れられるけれど、わたしの本拠地は京都です。日帰り東京ツアーでした。

参加枠五名という規模で、そんなに知らないひともいなかったのできがるーな気持ちで会場に入ったら、
みんな鼻眼鏡でびっくりしました。鬱に効くらしい。
冬にお会いしたじょーねつさんが、上半身全部赤だったので、もしかしたらきょうも赤なのかな、と思いきやそんなことはありませんでした。ざんねん。

わたしは紅茶にたくさんガムシロとミルクを入れる派なんですけど、それを突っ込まれたときに「あはは量が増えてお得じゃないですか~」と共感されるために言ったら全く共感を得られないでびっくりした。

題は「漢字一種類以外すべてひらがな」です。
わたしが出した歌はこれです。

なんとなくおんな抱きたいとおもうおかけになったばんごうはげんざいつかわ

中澤系っぽさがあるとの指摘がありました。たしかに!
女を抱きたいと思って、手近な女に電話するけど、かからない歌と解釈する人が多かったです。
男の浅い欲求って言われました。照れる!

一種類しか使えない漢字の使いどころや、ひらがなである必然性、みたいなのがむずかしかったです。
これは今後もチャレンジしてみたい。

前に稀風社の歌会に参加したときと、メンバーはそんなに変わらなかったと思うけれど、評とか雰囲気がぜんぜん違ってびっくりした!

飲み会のときに寺井さんに、「寺井さんの歌で未来日記というアニメを思い出しました。ぜんぜん面白くないアニメなんですけど」と言ったら組長が
「最初から八割まではあんなに面白かったのにな」とフォローを入れてくれてよかった。
犬の話らへんからけっこう怪しかったよな……。

改めて、ほしみゆえさんおめでとうございます?✨
たくさんの人にひかりを当てた連作だと思います。
ほしみさんの歌についてはまた書きます。

とりあえず授賞式の様子だけ。

アベンジャーズに入りたい

タイトルは特に関係ないです。願望です。

 

すこし前に伊舎堂さんが好きなわけではないのに思い出してしまう短歌について語る会を開いていて、私は参加はできなかったのですが、たしかにそういう歌あるよなぁと思う。

そんな中、最近よく脳内で思い浮かべる短歌がある。

このままじゃいつかぜったいぼくはしぬ 二十歳の朝の脈をとりつつ/久保美崎

これは三月に行われた短歌バトルで出されていた歌だ。

そのときの評では、脈を取るという行為や「しぬ」という言葉から、

寿命で死ぬ、病気で死ぬ、みたいな解釈だったように思う。(ほんとうにうろ覚えなので違ったらごめんなさい)

でも、短歌バトルから三か月経ってみると、この歌、身体的な歌じゃなくて、精神的な歌じゃないか? と思い始めてきた。

 

二十歳、というのは一つ転換の年で、「深夜高速」の歌詞ではないけど、十代はいつか終わる、と笑っていたのに、ほんとうに十代が終わってみると、どうしていいかわからない。

(高校を出て働いている人たちもたくさんいるけれど、)二十歳だとまだ大学生の人も多く、就職までも時間があって、でも、もうずっと遊んでいられるわけではない、と思い始める年でもある。

そういったときに、じわじわと追い詰められて、いくのが「ぼく」なのである。

「ぼく」という一人称はすこし特殊で(短歌バトルでの歌、ということで、作者の久保さんが女性である、という前提で読んだとき)、女性で「ぼく」という一人称にはやっぱりひっかかりがある。

 

松村栄子さんの「僕はかぐや姫」という小説を思い出す。

女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた<らしさ>の全てが疎ましくなって、すべてを濾過するように<僕>になり、そうしたらひどく解放された気がした。

 主人公は、女子高生で、文芸部に属している。主人公の一人称は「僕」だ。

これは主人公による、社会に対するささやかな反抗心の発露だった。

小説内には一人称に関する記述が多くあらわれる。

尚子のほうは部会に出てこなくなり、会えばからからと空虚に笑うようになった。尚子の魂はくぐもったベールに包まれ、三年になって同じクラスになってみると、いつしか彼女は<あたし>という一人称を身につけていた。

主人公は、「僕」という一人称につよく意識を持って、<あたし>という一人称に下った尚子を否定的に見ている。

この小説では17歳から18歳にかけての物語だが、「僕」という一人称を女性がつかうことには、やっぱりなにか、「わたし」や「あたし」とはなにか違うものがあるのだと思う。

 

また、椎名林檎の歌でも「僕」という一人称がよく使われる。

特に「透明人間」の歌詞は顕著じゃないだろうか。

僕は透明人間さ きっと透けてしまう 同じひとには判る

噂が走る通りは息を吸い込め 止めた儘で渡ってゆける

 

恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら

濁りそうになったんだ。

 

ここでいう<濁る>が、「僕はかぐや姫」における<あたし(という一人称)>であり、久保さんの歌に現れる<しぬ>なんじゃないだろうか。

 

人間は健康なら八十歳まで生きるとか、近代医療の発達とかどうでもよくて、避けられないまま、絶対的に、わたしたちは自然に<ぼく>を卒業してしまう。

「僕はかぐや姫」における主人公の<僕>は、男子校の生徒と触れ合うことによって、「透明人間」の<僕>は「恥ずかしくなったり」(これはほかの人と話したり、触れ合って、だと思う)することによって、

うしなわれたり、濁ったりする。

 

そういった避けられない死を歌う、大人になりかけている少女の叫び、のような歌なんじゃないかと思う。

 

おうどん。

 

追記

「僕はかぐや姫」、センター試験に使われた文章なので、

知ってる人も多いかも。

私は駿台のセンター対策教室の教材としてこの文章に出会ったのだけど、身に思うことが多すぎて、解きながら号泣した。

ぜひ読んでみてほしい。特に高校で文芸部だった女子。

へたしたら死ぬ。

「<二十億光年の孤独>を読んだ?」

「・・・・・・うん。泣いた、僕」

キルケゴールが・・・もちろん読んだって半分もわからないんだけど・・・・

本を開いただけで苦しくなって・・・・・」

「<死に至る病><わたしにとっての心理>・・・僕らをひとことで殺す文句だ。」

 一番こころにぐさっと刺さった文章と、冒頭の一節は、引用しないので、ほんとうに、読んで……という気持ちです。

 

 

 

歌会のときの評のことばについて思うこと

短歌にはまったきっかけは歌会のたのしさだった。

歌会にはあんまりテンプレートがなくて、争点らしい争点がなくて、表現に対して、いろんな言葉でアプローチできるから、たのしい。その歌に対する立場の取り方が、読む人によって全然ちがって、それを聞くのもおもしろい。

 

歌をみたときにわたしたちが感じることは、31音よりずっとずっと多い。使われている助詞ひとつとか、詠みこまれている単語ひとつを手掛かりに読み進めていく。

短歌は、私たちが使っている言語とちょっと違う言語法則が働いてる。

歌に詠みこまれている単語も、私たちが辞書で知っている意味以上のものを少しずつまとって、歌の中に存在している。

意味以上のものには、例えばイメージだったり気分だったりがある。

イメージや気分を散文や言葉で直接表わすのは難しい。説明的な言葉に変換された瞬間に、イメージはしぼみ、気分はそっと立ち消える。

もちろんはっきりと説明の言葉を尽くす方が、言葉の共有は簡単だし、理解も早い。

けれど、それって本当に歌の理解なのかよ。

説明や解や論理は必要だけど、でもそれだけで読めるんだったら、短歌の必要性が揺らぐと思う。

 

短歌が別の言語法則で動いているのだから、私たちが歌を読むときには、短歌を読むための言語法則を見つけ出さなきゃいけないと思う。

だから、わたしは、いろんな例え話をして、その歌から自分が感じたイメージや気分をできるだけそのままのかたちで歌会の場所にいるひとと共有したいと思うし、他の人たちの感じたイメージや気分を知りたいと思う。

 

阪大で配布されているフリーペーパー「漂流記」に、阪大短歌の山田誠久さんが載せていた文章がとても好きだったので引用します。

議論が白熱するほどにそれぞれの出身地や専攻の特色が出て、飛び交う方言に専門用語。一方では江戸文学について話しているときに、もう一方ではラジカル連鎖反応の話をしているなんてこともしばしば。(中略)

どうしてそんなことが起きるかというと、今これを書いている私の個人的な意見ですが、みんな「伝えたい」からだと思います。じゃあ普通に話せばいいのに、ってなりそうなんですが、それがなかなか上手くいかなくて。例えば「方言でしか伝えられないこと」があったとして、それはやっぱり方言で話すしかないんですよ。文章で伝えられるなら、僕たちは歌になんかしません。歌でしか伝えられないことがあると思っているから、こうして活動しています。そんな中では感覚でしか話せないことばかりです。みんな「伝える」ことに必死で、わかるとかわからないとか関係なくて、使えるもの全部使って伝えようとすれば、方言も専門用語も小学校での思い出も、好きな音楽の話も、一昨日バイトで見かけた変な人の話も、一限の授業で習ったばかりのことも、みんなみんな武器になります。

 

すごく救われる文章だった。

うーん。いろいろ思うところはあるけれど、今日の歌会も楽しかった。また行きたいな。

 

 

短歌研究 5月号

新人賞の時期だなーと思いつつ、この間石井僚一短歌賞でなににも引っかかれなかったことがびっくりするほど悔しくて、呆然としつづけてる。

けど、一応短歌研究を買ってみた。30首かぁ。審査員非公開って毎年なのかな。

わからないことばっかりだ。

 

はじめてまじまじと短歌研究を読んでみた。(いつもは目当ての人の歌しか読まない)

表紙の歌 "快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花 (長塚節)"の解説好き。病で気が弱っているときに、元許嫁の女性から花を貰って、花瓶がないから薬壜を探して活ける。その花々の中で矢車の花だけが「心強げに」咲いていたのはうつくいいなぁと思う。病気の心にぱっと光が差すよう。

 

千葉聡さんの「短歌のとなりの物語」も面白かった。

NHK短歌にも漫画と短歌のコラボレーションがあって、それも毎回読んでしまう。

巻頭のエッセイを書いている村上しいこさんは『うたうとは小さないのちひろいあげ』という小説で野間児童文芸賞を獲られたらしい。作中にはキャラクターたちの口を借りて、村上さんが詠んだ歌が60首ほど載っているということ。

ぜんぜんチェックしていなかったので、読みたい。

 

作品季評の対談。穂村弘さん(コーディネーターってなんだろ)と、水原紫苑さんと、吉岡太郎さんの三人が、「日照雨」(柏崎驍二)・「防災無線」(米川千嘉子)・『砂丘律』(千種創一)の各連作・歌集について話してる。

歌集とか連作を読むときの人の考え方や捉え方(作品内の自分の立ち位置とか)が見えておもしろい。「日照雨」の読みで、穂村弘さんが「吹雪美人図」のイメージについての読みを展開していて、なんだか安心した。

 

買って読んでない短歌研究も読まなきゃなぁと思いつつ、好きな連作ばかりいつも見直してしまう。

好きな歌は数えるほどしかないけど、好きな連作はちょっとずつだけ増える。

短歌を読むことがもうちょっと楽しくなったらいいな。

 

新歓の季節で、短歌にはじめて触れ始めるひととたくさん喋ったり、就職活動の面接官のひとに「短歌やってるんですね」って言われたりしたときに、いつも言葉に詰まる。

わたしが短歌について話すとき、わたしが短歌するときと全然違う気持ちになる。

短歌について語ったり、説明したりするときの短歌、全然楽しそうじゃなくて自分でびっくりする。

うーん、短歌、何が楽しいんだろ。ってなったとき、穂村弘になりたいって思う。