歌会のときの評のことばについて思うこと

短歌にはまったきっかけは歌会のたのしさだった。

歌会にはあんまりテンプレートがなくて、争点らしい争点がなくて、表現に対して、いろんな言葉でアプローチできるから、たのしい。その歌に対する立場の取り方が、読む人によって全然ちがって、それを聞くのもおもしろい。

 

歌をみたときにわたしたちが感じることは、31音よりずっとずっと多い。使われている助詞ひとつとか、詠みこまれている単語ひとつを手掛かりに読み進めていく。

短歌は、私たちが使っている言語とちょっと違う言語法則が働いてる。

歌に詠みこまれている単語も、私たちが辞書で知っている意味以上のものを少しずつまとって、歌の中に存在している。

意味以上のものには、例えばイメージだったり気分だったりがある。

イメージや気分を散文や言葉で直接表わすのは難しい。説明的な言葉に変換された瞬間に、イメージはしぼみ、気分はそっと立ち消える。

もちろんはっきりと説明の言葉を尽くす方が、言葉の共有は簡単だし、理解も早い。

けれど、それって本当に歌の理解なのかよ。

説明や解や論理は必要だけど、でもそれだけで読めるんだったら、短歌の必要性が揺らぐと思う。

 

短歌が別の言語法則で動いているのだから、私たちが歌を読むときには、短歌を読むための言語法則を見つけ出さなきゃいけないと思う。

だから、わたしは、いろんな例え話をして、その歌から自分が感じたイメージや気分をできるだけそのままのかたちで歌会の場所にいるひとと共有したいと思うし、他の人たちの感じたイメージや気分を知りたいと思う。

 

阪大で配布されているフリーペーパー「漂流記」に、阪大短歌の山田誠久さんが載せていた文章がとても好きだったので引用します。

議論が白熱するほどにそれぞれの出身地や専攻の特色が出て、飛び交う方言に専門用語。一方では江戸文学について話しているときに、もう一方ではラジカル連鎖反応の話をしているなんてこともしばしば。(中略)

どうしてそんなことが起きるかというと、今これを書いている私の個人的な意見ですが、みんな「伝えたい」からだと思います。じゃあ普通に話せばいいのに、ってなりそうなんですが、それがなかなか上手くいかなくて。例えば「方言でしか伝えられないこと」があったとして、それはやっぱり方言で話すしかないんですよ。文章で伝えられるなら、僕たちは歌になんかしません。歌でしか伝えられないことがあると思っているから、こうして活動しています。そんな中では感覚でしか話せないことばかりです。みんな「伝える」ことに必死で、わかるとかわからないとか関係なくて、使えるもの全部使って伝えようとすれば、方言も専門用語も小学校での思い出も、好きな音楽の話も、一昨日バイトで見かけた変な人の話も、一限の授業で習ったばかりのことも、みんなみんな武器になります。

 

すごく救われる文章だった。

うーん。いろいろ思うところはあるけれど、今日の歌会も楽しかった。また行きたいな。