アベンジャーズに入りたい
タイトルは特に関係ないです。願望です。
すこし前に伊舎堂さんが好きなわけではないのに思い出してしまう短歌について語る会を開いていて、私は参加はできなかったのですが、たしかにそういう歌あるよなぁと思う。
そんな中、最近よく脳内で思い浮かべる短歌がある。
このままじゃいつかぜったいぼくはしぬ 二十歳の朝の脈をとりつつ/久保美崎
これは三月に行われた短歌バトルで出されていた歌だ。
そのときの評では、脈を取るという行為や「しぬ」という言葉から、
寿命で死ぬ、病気で死ぬ、みたいな解釈だったように思う。(ほんとうにうろ覚えなので違ったらごめんなさい)
でも、短歌バトルから三か月経ってみると、この歌、身体的な歌じゃなくて、精神的な歌じゃないか? と思い始めてきた。
二十歳、というのは一つ転換の年で、「深夜高速」の歌詞ではないけど、十代はいつか終わる、と笑っていたのに、ほんとうに十代が終わってみると、どうしていいかわからない。
(高校を出て働いている人たちもたくさんいるけれど、)二十歳だとまだ大学生の人も多く、就職までも時間があって、でも、もうずっと遊んでいられるわけではない、と思い始める年でもある。
そういったときに、じわじわと追い詰められて、いくのが「ぼく」なのである。
「ぼく」という一人称はすこし特殊で(短歌バトルでの歌、ということで、作者の久保さんが女性である、という前提で読んだとき)、女性で「ぼく」という一人称にはやっぱりひっかかりがある。
女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。そう感じたのはいつ頃だったろう。器用にこなしていた<らしさ>の全てが疎ましくなって、すべてを濾過するように<僕>になり、そうしたらひどく解放された気がした。
主人公は、女子高生で、文芸部に属している。主人公の一人称は「僕」だ。
これは主人公による、社会に対するささやかな反抗心の発露だった。
小説内には一人称に関する記述が多くあらわれる。
尚子のほうは部会に出てこなくなり、会えばからからと空虚に笑うようになった。尚子の魂はくぐもったベールに包まれ、三年になって同じクラスになってみると、いつしか彼女は<あたし>という一人称を身につけていた。
主人公は、「僕」という一人称につよく意識を持って、<あたし>という一人称に下った尚子を否定的に見ている。
この小説では17歳から18歳にかけての物語だが、「僕」という一人称を女性がつかうことには、やっぱりなにか、「わたし」や「あたし」とはなにか違うものがあるのだと思う。
また、椎名林檎の歌でも「僕」という一人称がよく使われる。
特に「透明人間」の歌詞は顕著じゃないだろうか。
僕は透明人間さ きっと透けてしまう 同じひとには判る
噂が走る通りは息を吸い込め 止めた儘で渡ってゆける
恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら
濁りそうになったんだ。
ここでいう<濁る>が、「僕はかぐや姫」における<あたし(という一人称)>であり、久保さんの歌に現れる<しぬ>なんじゃないだろうか。
人間は健康なら八十歳まで生きるとか、近代医療の発達とかどうでもよくて、避けられないまま、絶対的に、わたしたちは自然に<ぼく>を卒業してしまう。
「僕はかぐや姫」における主人公の<僕>は、男子校の生徒と触れ合うことによって、「透明人間」の<僕>は「恥ずかしくなったり」(これはほかの人と話したり、触れ合って、だと思う)することによって、
うしなわれたり、濁ったりする。
そういった避けられない死を歌う、大人になりかけている少女の叫び、のような歌なんじゃないかと思う。
おうどん。
追記
知ってる人も多いかも。
私は駿台のセンター対策教室の教材としてこの文章に出会ったのだけど、身に思うことが多すぎて、解きながら号泣した。
ぜひ読んでみてほしい。特に高校で文芸部だった女子。
へたしたら死ぬ。
「<二十億光年の孤独>を読んだ?」
「・・・・・・うん。泣いた、僕」
「キルケゴールが・・・もちろん読んだって半分もわからないんだけど・・・・
本を開いただけで苦しくなって・・・・・」
「<死に至る病><わたしにとっての心理>・・・僕らをひとことで殺す文句だ。」
一番こころにぐさっと刺さった文章と、冒頭の一節は、引用しないので、ほんとうに、読んで……という気持ちです。